真田紐 ラッピング 織元すみや
真田紐と真田幸村
今から400年前の慶長20年(1615年)・・・日本が、西軍(豊臣)東軍(徳川)に分かれ壮絶な戦いを繰り広げた大坂夏の陣。この戦いで勇敢に戦い、死んでからもなお、敵将に「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と言わしめた武人「真田幸村」・・・。
真田紐と真田幸村
真田幸村は、父・昌幸とともに真田紐を考案した人としても知られています。真田紐製造・販売を生業としている者として、真田幸村について知っていくうち、どんどん彼の魅力に引きこまれていきました。 そこで、真田幸村の活躍や縁の地などを、私なりにご紹介していこうと思います。 ご存知のとおり、「幸村」の実名は「信繁」です。では、「幸村」と言う名はどこから来たのでしょうか? それでは、まずはじめに「幸村」の名の由来から紐解いていきたいと思います。
現在でも「真田幸村」の名で広く知られいますが、直筆の書状や生前の資料で「幸村」の名は使われていた事実はなく、やはり「信繁」が正しいようです。 「幸村」が使われ始めたのは大坂夏の陣の後で、寛文12年(1672年)の軍記物語『難波戦記』が大人気となり「幸村」と言う名が世間に広まりました。 「幸村」名があまりにも有名になってしまったので、幕府編纂の系図資料集『寛政重修諸家譜』や兄・信之の子孫が代々藩主を務めた松代藩の正史にまで「幸村」名が採用されたそうです。やはり、今も昔も流行ってすごいことですね。 「幸」は真田家の通字で、祖父・幸隆、父・昌幸、そして兄・信之も改名前は信幸でした。このように真田家では、幸道・幸弘・幸専・幸貫など名前に「幸」の字のつく人が多くいました。 「村」については、姉・村松の「村」だとか、徳川を呪った妖刀村正の「村」だとか諸説いろいろあるようです。 実名は真田左衛門佐信繁(さなださえもんのすけのぶしげ)。でも、ここではあえて「幸村」と呼びたいと思います。
 
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