真田紐 ラッピング 織元すみや
真田紐と真田幸村
今から400年前の慶長20年(1615年)・・・日本が、西軍(豊臣)東軍(徳川)に分かれ壮絶な戦いを繰り広げた大坂夏の陣。この戦いで勇敢に戦い、死んでからもなお、敵将に「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と言わしめた武人「真田幸村」・・・。
さて、今からさかのぼること448年前・・・。
永禄10年(1567年)
武田信玄の家臣、武藤喜兵衛昌幸(後の真田昌幸)の 次男として甲斐国甲府(山梨県甲府市)で生まれました。 幼名は弁丸。 (ちなみに家康の幼名は竹千代、秀吉は日吉丸、信長は吉法師、利家は犬千代でした。他にも伊達政宗の梵天丸、豊臣秀頼の拾丸、浅井長政の猿夜叉丸、上杉謙信の虎千代など、個性的な幼名ですね。)
幸村の祖父・幸隆や父・昌幸が仕えた武田信玄。幸村の実名「信繁」は、信玄の弟であり信玄の影武者でもあった武田信繁に惚れ込んだ父が、迷わず付けた名前だったそうです。
甲府市内にある真田弾正忠幸隆屋敷跡です。幸村の祖父・幸隆のお屋敷跡ですね。もしかしたら幸村はここで生まれたのかも知れません。
こちらは真田源太左衛門尉信綱屋敷跡です。幸村の父・昌幸の兄、幸村のおじさんです。長篠の戦で弟・昌輝とともに戦死しました。
こちらは武田神社です。甲府で生まれたと言われる幸村。幼い頃、兄の信幸と一緒にこの境内で遊んだかも知れません。
天正3年(1575年)
織田信長VS武田信玄の長篠の戦(愛知県新城市)で父・昌幸の二人の兄が戦死。そのため真田家の家督を父が継ぐこととなり、一緒 に信州上田へ戻る。幸村8才。姓を真田に改名。 その後、元服(今で言う成人式のこと)し、真田源次郎信繁となりました。
真田氏本城跡(真田町)
真田郷を守るための拠点でした。
真田氏歴史館(真田本町)
真田一族の歴史を紹介。武具なども展示しています。
上田城跡公園(二の丸)
この中に、市立博物館や真田神社などがあります。
真田神社 真田親子(昌幸・幸村)を祀った神社。
特に、幸村の神霊は「知恵の神様」として崇められています。 神社の裏手にある真田井戸には、上田城の北方、太郎山麓の砦に通じていたとの伝説があります。
天正10年(1582年)
真田家の主家である武田家が滅び、織田信長が本能寺の変で横死(寿命を全うせずに亡くなること)すると、父・昌幸は、真田家生き残りのため庇護を求めて、上杉→北条→徳川→上杉→豊臣と次々に主人を替え、豊臣秀吉から「表裏比興の者(食わせ者)」と評されたそうです。
天正13年(1585年)
幸村19才。徳川から上杉に寝返った父の命によっ て上杉景勝の人質となり、越後の春日山城に送られる。
上杉景勝 
人質として送られてきた幸村に高い禄(お給料のこと)を与えて、景勝軍の一員として可愛がってくれたそうです。 しかし、約1年後、父・昌幸の命令で幸村は景勝が留守の間に春日山城を抜け出し、豊臣の人質になってしまいます。このとき景勝は、秀吉に「幸村を返して欲しい」と懇願したと言われています。
天正14年(1586年)
秀吉の人質として大坂城へ送られました。秀吉も幸村にことをとても可愛がり、真田家は豊臣家の直臣となり大きく躍進しました。 そして、この頃秀吉に仕えていた徳川家康の指揮下に組み込まれます。
この時、後に徳川と敵対することになるとは想像もしていなっかたことでしょう。
天正18年(1590年)
幸村24才。秀吉の命により、父・昌幸とともに小田原の役(北条との戦)に出陣。幸村の初陣です。
前田利家・上杉景勝とともに松井田城(群馬県安中市)を攻撃します。数千の兵がこもる松井田城は、幸村達の総攻撃でも落ちず、1ヵ月後に城主大道寺政繁の降伏で豊臣側に明け渡されました。
人質生活の長かった幸村の遅い初陣でしたが、見事に役目を果しました。
 
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