真田紐 ラッピング 織元すみや
真田紐と真田幸村
今から400年前の慶長20年(1615年)・・・日本が、西軍(豊臣)東軍(徳川)に分かれ壮絶な戦いを繰り広げた大坂夏の陣。この戦いで勇敢に戦い、死んでからもなお、敵将に「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と言わしめた武人「真田幸村」・・・。
文禄元年(1592年)
幸村26才。秀吉の朝鮮出兵に従い、父とともに肥後国名護屋(佐賀県唐津市)に在陣。
文禄3年(1594年)
幸村28才。秀吉より「従五位下 左衛門佐」に任ぜられ、豊臣の姓を賜る。この頃、秀吉の寵臣・大谷吉継の娘(竹林院)と結婚します。
慶長3年(1598年)
幸村32才。伏見城にて秀吉に仕える。 この年、実子秀頼の身を案じながら秀吉死去。
慶長5年(1600年)

幸村34才。家康の元、上杉征伐のため東下。 下野国犬伏(栃木県佐野市)着陣中に石田三成の使者より、反徳川の挙兵を伝えられる。

有名な犬伏の別れです。父・昌幸と幸村は、大恩ある豊臣方に。兄・信幸は、徳川方につくことを決め、犬伏で別れることとなります。
父と幸村は、徳川陣営を離れ上田城に帰還しました。そして上田城に篭城し、徳川秀忠の軍を迎え撃つことになります。(第二次上田合戦)
そしてついに、美濃国(岐阜県)関が原で天下分け目の決戦が始まり、東軍(徳川方)が勝利し天下は徳川家康のものとなりました。勝った家康は、昌幸・幸村親子を殺そうとしますが、「父を罰する前に、先ず私に切腹を仰せ付けください」との兄・信幸の必死の説得や信幸の義父である本多忠勝の「そのような事になれば、殿と一戦つかまつります」との口添えもあり、二人の命だけは助けることにし、高野山に流配と決まりました。 (※兄・信幸は、この時がきっかけかは定かではありませんが、名を「信幸」から「信之」に改名しています。)
昌幸には家来が16名随行し、幸村は家族を連れ紀州国(和歌山県)高野山へと向かいました。その頃の高野山は女人禁制だったため、麓の九度山で謹慎生活を送ることとなりました。 この頃、真田紐を考案し生活の足しにしたり、家来に行商させながら諸国の情勢を探らせていました。 昌幸は、謹慎の身でしたが常に次の戦に備えての作戦を幸村と立てていたようです。

慶長16年(1611年)
幸村45才。父・昌幸が病気のため死去。流刑から11年目のことでした。
慶長17年(1612年)
幸村46才。幸村、頭をまるめ出家。名を「好白」と改めました。この頃の幸村は、父も亡くなり10年を越える謹慎生活に疲れたにか、故郷上田にいる姉婿に「歯なども抜けし候、ひげなども黒きはあまりこれなく候」と言う内容の手紙を送っています。
 
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