真田紐 ラッピング 織元すみや
真田紐と真田幸村
今から400年前の慶長20年(1615年)・・・日本が、西軍(豊臣)東軍(徳川)に分かれ壮絶な戦いを繰り広げた大坂夏の陣。この戦いで勇敢に戦い、死んでからもなお、敵将に「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と言わしめた武人「真田幸村」・・・。
慶長19年(1614年)
大坂冬の陣
幸村48才。この頃、豊臣氏を何としても滅ぼしたい徳川家康は、戦のきっかけを探していました。その時、豊臣氏が再建した京都の方広寺の鐘の銘文に難癖をつけました。「国家安康」について、「家康を分断し呪っている」、「君臣豊楽 子孫殷昌」は「豊臣を君として子孫の繁栄を楽しむ」と読んだのです。

そんな時、幸村のもとに大坂城から入城の要請が届きます。流人のまま終りたくないと考えていた幸村は、息子の大助とともに九度山を脱出し大坂城へ向かいます。 家康の言いがかりで始まった大坂冬の陣。大坂城では作戦会議が行われました。幸村は、父から教えてもらった作戦を提案しましたが却下。奇襲戦法も提案しましたがこれも却下され、「大坂城は難攻不落の名城」と言われていたため、籠城策が採用されてしまいます。幸村には実践の経験が少く、謹慎生活によるブランクがあったために、他の武将の賛同が得られるだけの説得力がなかったからです。 また、徳川方にいる兄・信之の密偵ではないかとの疑いもあったようです。 ※幸村の大坂城入城の知らせを聞いた家康が「親か子か」と尋ね、子の方とわかってほっと胸を撫で下ろしたといいます。

そこで幸村が考え出したのが大坂城外に砦を作ることでした。「真田丸」です。 幸村が築いたのでこの名で呼ばれました。大坂城唯一の弱点である南側に真田丸を築き、自ら守備にあたりました。

幸村の作戦により、徳川と和睦することになりましたが、徳川側の出した条件は大坂城の外堀を埋めること。二の丸・三の丸を破壊すること。しかし、家康は外堀どころか内堀まで埋め、二の丸・三の丸は破壊され、大坂城は裸城となりました。当然、真田丸も破壊されました。 。
 
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