真田紐 ラッピング 織元すみや
真田紐と真田幸村
今から400年前の慶長20年(1615年)・・・日本が、西軍(豊臣)東軍(徳川)に分かれ壮絶な戦いを繰り広げた大坂夏の陣。この戦いで勇敢に戦い、死んでからもなお、敵将に「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と言わしめた武人「真田幸村」・・・。
慶長20年(1615年)
大坂夏の陣
幸村49才。大坂城に残った浪人達が戦の準備を始めたことを耳にした家康は、豊臣秀頼に対し国替えと城内の浪人を追放することで恭順(命令に慎んで従う態度をとること)を示すよう要求しますが、秀頼側がこれを拒否したため再び戦がはじまりました。これが、「大坂夏の陣」です。

目標は家康の首。幸村は、狙いを家康に定め決死の覚悟で突撃を開始しました。 真田・毛利隊は越前勢を圧倒して、ついに家康の旗本(戦場で主君の軍旗を守る武士団)に遭遇。果敢に突撃をくり返す幸村の真田軍。この猛攻で家康の旗本は大混乱になり、とうとう家康の馬印(戦場で武将が自分の所在を明示するもの)まで倒されました。 このときは、家康も切腹の覚悟を決めましたが、側近に止められ思いとどまりました。真田隊の猛撃は家康に死を覚悟させるほどの凄まじさでした。

しかし、さすがの真田軍も寡兵となり、目標である家康の首を挙げることはできませんでした。 真田軍の攻撃が弱まり、家康の反撃が開始しました。幸村は、秀頼に出馬要請するが実現はしませんでした。 猛攻を続けた幸村ですが、だんだんと終わりが近づいてきました。 傷ついた幸村は、安居神社の境内で手当をしているときに、越前松平隊の西尾甚左衛門に槍で討ち取られました。享年49才。この翌日、秀頼と淀殿は自刃。幸村の息子、大助も秀頼に殉死しました。 そして幸村は「英雄」となりました。

夏の陣で幸村の武神ぶりを目の当たりにした島津忠恒は故郷への手紙に『真田、日本一の兵。真田の奇策は幾千百。そもそも信州以来、徳川に敵すること数回、一度も不覚をとっていない。真田を英雄と言わずに誰をそう呼ぶのか。女も童もその名を聞いてその美を知る。彼はそこに現れここに隠れ、火を転じて戦った。前にいるかと思えば後ろにいる。真田は茶臼山に赤き旗を立て、鎧も赤一色にてつつじの咲きたるが如し。合戦場にて討死。古今これなき大手柄』と絶賛している。

夏の陣後、幸村の首実検の際「幸村の武勇にあやかれよ」と家康が言うと、武将達がこぞって遺髪を取り合ったといいます。 また、家康は「幸村の戦いぶりは敵ながら天晴れであり、江戸城内にて幸村を誉め讃えることを許す」とした。 家康は、幸村によって窮地に追い込まれたが、同じ戦国の男として騎上の幸村に感嘆していたのでしょう。




おわりに
戦国時代に思いを馳せ、真田幸村についてつらつらと書いて参りました。内容については、趣味の一環として独自に調べたものですので信憑性については責任を負いかねます。
 
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